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神戸 非=紀行1
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I LOVE ART 掲示板
小澤隆次の非=意味をテーマにした現代美術サイト『非=意味のワンダーランド』の別館、
『I LOVE ART』。物語らないことの作法をテーマに随時更新していきます。20020626〜
(メモ)
物語らないことで、いかに、物語るか。物語ることで、いかに、物語らないか。これを自分なりに追究・探究したい。

サイトのトップの左側には文章中心の構成、右側には画像中心の構成で、展開して行きます。

何が可能かは今後の展開次第ですが、お気づきの点は、掲示板まで、どうぞ。

『物語らないことの作法=序』
(物語らないことで物語ること、もしくは、物語ることで物語らないこと)

(はじめに)
 小説の書き方、物語の作法、絵の描き方と、さまざまな作法書や入門書が多数出版されている。たとえば文章読本と名のつく書籍を探してみれば、その多さは一目瞭然だろう。文学中心のものビジネス中心のものと呆れるくらいの量の文章読本が氾濫している。そこに垣間見えるのは、書かないことではなく、書くことがすべてであるということ、当然のことなのだが、書かないこと、物語らないこと、描かないこと、ではなく、書くこと、物語ること、描くことが最優先事項なのだということである。それは、説明するまでもなく、多数の作法書、入門書を手にすれば、いやでも理解できる事実であろう(否定する余地など一切なく)。あくまでも物語らないことではなく物語ることが優先されるのであり、いかに的確に物語るかが問われるのであって物語らないことが問われるわけではない。しないことで評価されるのではなく、することで評価されること、これが一般則であり常識なのだ。どこにも物語らないための文章読本など存在していない。それは当然といえば当然のことなのではあるが。
 物語とは、単純に定義すれば、何らかの素材を組み立てて何かを表現することであるといっていい。だから、あらゆるものが物語であるということが可能だ。物語らない者など誰も存在しないし、すべての表出が物語としてしか存在し得ない。物語らないことの作法を説く、この言説も、どうしようもなく物語であることにかわりはない。すべては、意味付けられ、物語としてしか存在し得ないというのが真実であり、物語らないという選択肢は残されていない。すべては、ここから始めるしかないだろう。そうであるからこそ、物語らないことで物語る作法を考察し現前させる方法を試行錯誤すること、それが、ここでの論点である。もしくは物語ることで物語らない作法を確立することが求められているのだと思う。

(インタールード)
 誰も表現し得ない場、誰も物語ることのできない時空間、まさに、そんな不可能な磁場を用意し準備すること。何も意味しない場、物語も表現も存在し得ないような磁場。物語も表現も一瞬で凍りつき、空白化し、無となり、物語も表現も存在し得ないような、どことも知れない場。誰もが沈黙を強制されてしまう強引で強力な磁場。何も物語らない物語、何も表現しない表現、何も物語れない物語、何も表さない表現、そんな不可能な存在を誘い出そうとする不可能な試み。しかし、たとえ不可能だとしても、心から望むのは、そんな不可能な場であり、限りなく無に近い何物かであり、原理的で構造的な視線に基づくであろう何かにほかならない。誰もが当然で自明の理として無意識に繰り返す同じ物語、類似した表現のすべてを覆し、沈黙へと至らしめること。

(物語の氾濫について)
 人は、なぜ、こんなにも物語が好きなのだろうか。誰もが物語が好きで好きでたまらないらしいのだ。それは、生れてから死ぬまで、しかも、起きてから眠るまで(いや、眠ってからも夢物語に耽るのだから、ほとんど休みなく)延々と続けられる営為なのである。自分で物語ること、そして、他者の物語に接すること。人は、常に物語り続けるのをやめようとは決してしないし、他者の物語に接することもまた同様である。
 物語とは何か。それは、簡略に定義するなら、言語記号や映像の記号を配置して意味付けられた営為の総称である(記号とは何か。それは、一定の思想内容を示すための手段の総称だったり、あらゆる関係の網の目の結節点だったり、記号表現と記号内容とのコードによる恣意的結合体だったりと、さまざまに定義され、機能もする意味の単位に他ならない)。噂話(ゴシップだのスキャンダルだの)、自慢、独白、体験談、伝記やノンフィクション、身の上話や自伝、夢物語、住居や住宅に関する幾つもの習慣やルール、ファッション、流行、マスメディアもしくはマスコミ(ラジオ、テレビ、新聞など)の流す広告やCM・ニュース・ワイドショーや各種の番組、昔話、神話や民話、看板、標識、文学(詩、小説など)、美術や音楽などの芸術、大衆文化(ポップスやロック、歌謡曲やメロドラマなどの雑多な多様体)、映画、写真、ドラマや演劇、アニメーションや漫画、言語論や記号学、科学、批評、哲学、論理学、数学、社会学、生態学、落書き、その他、架空の事象でも現実の出来事でも理念的な記述でも粗雑な内容でも緻密で体系的な論述でも、言語記号や映像の記号を配置して意味付けられた営為であるのなら、すべてが物語と呼称され得るのである。それは、一語でも一文でも一枚のスナップでも、充分に機能する虚構の産物である。
 物語ること、そして、物語に接すること。人は、一生涯、物語を愛して愛してやまないのである。まさに、人間が人間である所以は、自分で物語り、他者の物語に接することにあると言って良いとするならば、まさに、物語とともに生れたのが人間なのである。いや、人間の誕生と時を同じくして物語も登場したのではなかったか。今や物語の数は膨大である。人や文化が変わろうと、時代が異なろうと、物語は産出され続ける。人間が絶滅でもしない限り、物語は不滅である。
 人は、今まで、あらゆる物語を産出してきたのだ。言説は多種多様に展開されている。今や物語は膨大に展開されている。だから、人の考えることなど、もう既に誰かが物語っていると思っていたほうが良いだろう。しかし、それでも、人は、物語ろうと躍起になり、まるで冷静さを失い、矢継ぎ早に「次ぎは?」と誰にでも問いかけるのだ。人は誰も、物語を掘り起こしたり掘り返すのに夢中で、物語を掘り下げることなど思いも寄らないらしいのだ。それは、まるで物語の奴隷とでも呼称すべき状態である(それが典型的に現われているのが、漫画であり、RPGソフトであると言っても良い)。
 だから、宇宙のどこか遙か遠い場所に物語のエネルギー体とでも呼称すべき思念の実体化したような生命体(いや、端的に物語体とでも呼称するか?)が潜んでいて、人間が物語る際の意識だの心だの無意識だの脳だのの発するエネルギーを吸収して成長を続けてでもいるのではないか、と勘繰りたくもなるというものなのだ。まるで出来の悪いSF小説の設定のようだが、実は、その物語体が人間を誕生させたのであり、物語が産出される時のエネルギーこそが奴の主食なのである。だから、やがて、いつか、その物語のエネルギー体によって宇宙そのものが覆われてしまうのではないか、と、危惧してみたくもなる。奴は、すべてを食い尽くし、すべてを吸収する。そうだとするなら(いや、そんな筈はないと思いたいが)、まさに、人は、その物語のエネルギー体に自ら奉仕し働く奴隷に過ぎないのではないか。そこでは、何が物語られようと構わない。しかも、どんなに緻密で巧妙な物語批判でも現象としては同じことだ。なぜなら、語られされさえすれば良いからである。要するに、物語に費やされる膨大なエネルギーだけが物語体の望むところなのだ。
 この世界のどこを見ても物語ばかりではないか。右を向いても左を見ても、物語られた何物かしか存在し得ないのだと言わんばかりである。まさに、この世界は、物語で溢れかえっている。物語の大海で溺れようとしているのが、人間の真の姿だと言えるかもしれない。そして、それらの物語を更に加速させ、多種多様化している物がある。作品である。それは、膨大で途轍もない虚構捏造の場だ。つまり、作品とは、物語そのもの(別の言い方をするなら、虚構一般である)を、自明の理として持続させ、維持させ続けるための巧妙で狡猾な装置に他ならない。それは、まるで、物語のエネルギー体の用意し、準備した周到な仕掛けであるかのようである。まさに、作品という場は、物語がまるでそれらが自由で、とらわれのない思考や行為の配置であり、文脈化され意図的に解釈された虚構の連鎖ではないかのような錯覚を煽り立てる(それが、まさに、物語体の仕組んだ精巧な罠であると勘繰りたくもなるではないか。しかも、作品に類似した環境は、あらゆる場所に現出する。例えば、人が二人、世間話に集まれば、それで充分である。その対話の場では、何が前提条件なのかなどには構うことなく、共通の話題である物語が思い付くままに持続され、維持されるだろう。端的に言えば、そこでは、問われた者は答えなければならないような雰囲気が醸し出され、常に物語は持続され、維持され続けるだろう。言葉が尽きるか、何か用事ができるか、二人の間に険悪さが訪れるかするまで、物語は終焉することがない。それもまた、ここで言う作品と同種の環境に他ならないのである)。しかし、本当は、物語とは不自由な何物かの別名に他ならない。常に人は誤解し、信じ込んでいるが(それも物語体が人間にプログラムしたためなのかもしれないが)、物語は、まさに、不自由な営為以外の何物でもないのである。なぜなら、物語の場に身を置く時、人は、物語に操作されているという逆説的な状態に陥ってしまうからである。そして、誰もが、自分自身の意志で物語っていると錯覚しつつ物語る(しかも、物語るためには、文法構造や語彙といった言語の体系を習得し、自明の理としなければならない)が、そこでは主体である筈の語り手自身が、表現者自身が、他の主体と交替しても何も変わらない(稚拙さだとか、深さだとかといった差異がそこにはあるだけだ)。いや、物語の場にあっては、主体であると思われていた語り手自身や表現者自身が、いつのまにか客体となってしまう。端的に言えば、常に物語が主体なのである。そこでは、何が語られようと構わない。何かが語られさえすれば良いのである(それが物語体の望むところなのだ)。そこでは、いつも物語が主体である。しかも、反体制の言説が体制を図らずも補完してしまうように、物語批判もまた物語としてしか現前し得ず、物語を図らずも補完してしまうだろう。だから常に物語は語られ、そして常に物語は勝利する(常に物語体が勝利し、常に物語体は肥大を続けるのだ)。そして、それらの物語そのものを自明の理として持続させ(恣意性の体系である記号の交錯により文脈化され、意図的に解釈された虚構の連鎖ではないかのような錯覚を煽り立て)、維持させ続けるための巧妙で狡猾な装置が、作品に他ならないのである。極論すれば物語が自分の意志で人に物語らせるのだ。そこでは、人は、常に物語の奴隷に他ならない。執拗に繰り返せば、それを仕組んだのは、あの物語のエネルギー体、つまり、物語体に他ならない。何とも戦慄すべき事態である。強大で不可視の物語体の前では、なす術もないのだろうか。

(物語らないことで物語ること、もしくは、物語ることで物語らないこと)
 物語らない者など誰も存在しないし、すべての表出が物語としてしか存在し得ないことは論を尽くしたと思う。すべては、意味付けられ、物語としてしか存在し得ないというのが真実であり、物語らないという選択肢は残されていない。すべては、ここから始めるしかないのだ。そうであるからこそ、物語らないことで物語る作法を考察し現前させる方法を試行錯誤すること、それが、ここでの論点である。もしくは物語ることで物語らない作法を確立することが求められているのだ。
 ここで具体的に物語らない作法について実践することはできない(準備もできていないから)が、その方向性だけでも記してとりあえず終えようと思う。見出しにあるように「物語らないことで物語ること、もしくは、物語ることで物語らないこと」を追究すること、これしかない。それは、非=意味の実践ともリンクするだろうし、物語らないことの作法の実践こそが、今後の私の課題である。
物語らない作法としての、モーニング娘。論


 物語が氾濫している。それはヒット・ソングにおいても同様だろう。世界観、情緒や情念、思想、嗜好、感情や感覚、…。物語らない歌を探すことは不可能に近いだろう。なぜなら歌自体も物語ることで成立し、聞く者の共感を得るものだからだ。しかし、ここに例外がある。彼女らは充分以上に物語っているはずなのだが、物語が発生していないように思えるのだ。つんくによる大ヒット・ユニット、「モーニング娘。」だ。どれだけ大人数で歌唱しようとも、彼女たちの歌には意味が発生しないように感じるのは、私だけだろうか。歌詞という物語を駆使しつつも、しかも彼女たちの歌詞は、誰もが思い描いている言葉や気分をなぞっているだけなのだが、そこには物語が発生せず、物語っているというポーズだけが存在している(=物語らないことだけが存在している?)。それが彼女たちの実在である。赤色だの黄色だのプッチだのミニだのセクシーだの踊るだのとメンバーを入れ替え、多数化すればするほど彼女たちには物語が意味が稀薄になっていく。物語ることで物語らないこと、奇妙なことに、この状態をモーニング娘。が実現してしまっているようなのだ。いったい、それは、どういう状況なのか現象なのか。

似ているもの
 例えば、モーニング娘。が、似ていると論じられるもの、おニャン子クラブ。しかし、本当に似ているのだろうか。正直にいえば疑問である。ただし、共通点は、表向きにプロデューサーが明確であること、グループを介してのユニットが発生・派生したこと、多人数であること、大ヒットを飛ばしていること、しかも、スタッフの才能に依存したものとしての。ところが相違点も多数あるのだ。彼女たちが立脚していた番組の構成(ツンクがおニャン子クラブのファンだという証言もあって、彼が立脚していたのは、おニャン子クラブだろうし、夕やけニャンニャンだろう。しかし、完全な相似形ではない。おニャン子が立脚していたのは、夕やけニャンニャンだが、その立脚点はオールナイトフジだ。モーニング娘が立脚していたASAYANと夕やけニャンニャン、オールナイトフジとは番組構成が明らかに異なるだろう。なぜなら、当時の番組構成者でもある秋元康氏のコンセプト自体が番組を極力構成しないことにあったからに思えるからだ。要するに、番組構成に魅力があるのではなく、そこに出演(?)している女の子たちのキャラ、言動、性格などに依存した構成なのだ。そこには大きな物語などは存在しない。大塚英志流にいえば物語消費の一種であるといっていいだろうか。スター物語はASAYANにはあったと思うが、夕やけニャンニャンやオールナイトフジにはないといっていい)から異なるのだ。しかも、ソングライティング自体も大きく異なるだろう。秋元のソングライティングはあくまでもキャラ重視のプロの方法に他ならない。歌唱の稚拙さも計算内だ。逆にツンクのソングライティングはキャラではなく楽曲重視なのだ。だから、楽曲にそぐわないメンバーは卒業させるかソロに格上げ(格下げ?)という方法をとる。秋元の卒業は、おニャン子クラブを存続させようという親心であるに過ぎない。だからこそ、途中からフォークソング的な楽曲構成をディスコナンバー風のアレンジに変えたのだといっていい。例えば、ある楽曲は、秋元にあっては新田利恵が歌うことがすべてなのだが、ツンクにとっては誰が歌うよりも楽曲がヒットすることが優先するのだ。だから、あからさまな有名曲の転用(パクリ)も辞さないのだ。
 だから、巷で噂されるようにおニャン子とモー娘を比較しても、あまり意味がない。似て非なるものだからだ。あえてあげるなら、ツンクが秋元の方法の何を転用したのかを意識することだろう。おニャン子とモー娘ではなく、比較するのなら、秋元康とツンクである。ここに彼女たちの大きな相違点が隠れているといっていい。
 例えば、こういう比較は、どうだろうか。少女隊と少年隊だ。破格の金額をかけてデビューした少女隊だが、思ったようにヒットせず、音楽番組にもあまり出演できず、ヒットチャートにも顔をあまり出さず、メンバーチェンジをするも尻消えとなってしまったユニットなのだが、それには少年隊の存在とジャニーズ事務所の思惑があったという噂が当時は流れていた、密やかにだが。少女隊と少年隊という似て非なる存在は不要だという判断だろう。その昔、ロキシーミュージックというロックバンドにブライアン・イーノとブライアン・フェリーというミュージシャンが在籍し、同じ名前の人間は不要だという噂でイーノが脱退したという噂が真しやかに流れた。多分、少女隊と少年隊も同じだろう。何もジャニーズ事務所の軋轢などというもののために少女隊が消えて行ったというわけではなく時代の流れなのだと思う。しかし、ツンクは、ジャニーズ事務所のアイドルたちを参考にしていないという理由はない。おニャン子クラブとジャニーズ事務所を繋ぐ新しい女性アイドルユニットとして、モーニング娘。を企画したのではないか。

そして物語らない作法としてのモーニング娘。。
 では、モーニング娘。について再び論じてみよう。
 彼女たちが物語れば物語るほど、物語は稀薄になっていく。それが彼女たちの存在理由といっていい。モー娘という非=物語、それが彼女たちの本質である。

無題、
もしくは小説のための物語らないことの作法

 しかし、何を物語ればいいのか。今さら物語るべきものなど何もないはずではなかったか。すべて物語られたはずだ。それでも、物語る意義が果たしてあるのだろうか。なぜなら、そこには光があるだけだからだ。希望の(もしくは絶望の?)光が、そこに、そして光は単にユラユラユラユラ揺れているだけだろう。誰も光の恩恵を意識さえしていない。光の海。そこには、さざ波だけがある。寄せては返す物語の氾濫。しかし、誰が、物語の支配=氾濫を憂えているというのか。すべてが物語に汚染されており、物語以外のものなど存在しないとでも断言するかのようだ。誰も、それをスクープしない。すべては、番号化されるだろう。物語化されるように。赤、青、黄。
 しかし、ビールは、きりっと冷えているのに限る。缶だろうが瓶だろうが。しっかりと泡立てて冷えたグラスに注ぐのがポイントだろう。そう思って注ぐと決まって泡がグラスからこぼれ落ちるのだ、必要以上に泡が立って、その泡でテーブルがベタベタと濡れてしまう。それもまた物語だろうか?
 そこに光がある。光が発生する。だから暗い。それが真実である。光のダンス。

『非=意味論〜
非=意味の現代美術(絵画・写真)のために〜』
すべてが意味してしまう、そのこと自体にもっと驚くべきではないか?(小澤隆次)

「意味について(非=意味論、序説)」
 すべての存在は、必ず意味に彩られている。すべての存在は、必ず意味付けられることでしか存在し得ない。そもそも意味に彩られていない存在などありはしないし、たとえ意味のない何かが存在したとしても、意味のないものもまた意味がないという意味(=無意味)を担って、ささやかに意味に彩りを添えてしまうというのが現実である。すべての存在には、常に意味がついてまわる。まるで意味以外の存在は、何も存在しないとでも断言してまわるかのように。視点を変えてみれば、哲学もまた意味を巡って語り継がれる意味に溢れた言説の集積にほかならないといえるだろう。極端にいえば、意味から逃げることもできなければ、意味と闘って勝利することもできない、というより意味の覇権に誰も勝利することはあり得ないし、それより何よりも意味の覇権に誰も留意していないといったほうが正確だ。意味の強度は、あまりにも強大で絶対なのである。
 それは、まさに、すべての存在が、意味の牢獄に閉じ込められているということにほかならない。不可視の意味の牢獄が巧妙に縦横無尽に張り巡らされ、誰もそこから逃れることは不可能である。意味の牢獄について誰も意識することさえなく、それが自明で当然の状態だと信じている。意味に彩られていることを自由な状態だと信じきっているのだから、誰も、それを牢獄とは感知し得ないだろう。すべての存在が有無をいわさず意味してしまい、意味しない存在が許されないのなら、それは意味の牢獄ではなくて何であろうか。そこでは多元性=多様性という状態は存在しないし、すべては意味という一元化によって牢獄化されているというのが真実なのである。意味しないことも意味しないという意味に彩られてしまうのだから、すべては意味に彩られ、意味の牢獄に囚われている。
 人は誰も意味の牢獄の囚人なのだ。誰もが意味の牢獄に無意識のままで、しかもそれを自明のものとして安住しているのだから、人は誰も意味の牢獄の囚人なのだ、と、論じてみても意味がないのかもしれない。なぜなら誰もが自明のものとして意味を信じ、それを基盤に生きているのだからだ。だから、それに異義を唱えても誰も理解などするはずもないし、共感するはずもないといえるのかもしれない。意味という不自由を誰も不自由とは感じず当然のこととして自由だと信じてやまないのだから、それを不自由と指摘しても誰も耳を傾けはしない。しかし、誰もが自由だと信じている意味だの表現だのというものは、不自由以外の何ものでもないのは確実である。人は大人に成長するにつれて、意味の、表現の体系を覚えこまされながら自明のものとして覚え、知らぬ間にそれを自由な営為と錯覚するに至ったというのに過ぎない。学校とは、教育とは、不自由な営為である意味化、表現化、組織化をまるで自由なものであるかのように錯覚させるためにある制度以外の何ものでもない。
 意味とは不自由の別名以外の何ものでもないし、それが真実なのだ。人は、その現実を見据えなければならないし、今こそ意味の悪夢から目覚めるべき時なのである。自明なものとして信じこみ、また、信じこまされている意味という名の不自由を認識するべき時期なのだ。なぜなら常に意味せざるを得ない状態しか許されない存在などは不自由以外の何ものでもないからだ。そこには意味しない自由、純粋に何も意味しない自由などは選択肢としてさえも存在し得ない。すべては意味せざるを得ない。それを不自由と感じないなど、自由を隠蔽されているか、自由を取り違えているか(=取り違えさせられているか)のどちらかでしかない。人は、常に、意味の牢獄に囚われた存在でしかない。しかし、意味の牢獄に囚われているのに、それを意識さえできないということは、意味が監獄化しているということにほかならないだろう。誰もが意味の監獄に閉じ込められている、しかも不自由を自由だと刷り込まれたままで。
 絵画もまたイメ−ジという意味、物語という意味、情念だの情緒だの対象だの表現だの愛情だのという意味に彩られてだらしなく濡れそぼりきっているといっていい。そこに描かれているのは、意味以外の何ものでもない。イメ−ジという意味、物語という意味、情念だの情緒だの対象だの表現だの愛情だのという意味。だから、描かれているのは、絵画ではなく、意味以外の何ものでもないだろう。絵具の軌跡だけやイメージの痕跡だけが描かれていることなどは決してなく、常に絵画には意味が描かれているだけだ。絵画が描かれているのではなく、意味が描かれている、それを絵画と誰もが錯角している、それが現状だろう。真に絵画的な絵画というものは、そんな意味的なものではない、もっと荒唐無稽で怪物的な悦楽の極限としてこそ存在し得るはずだ。これから、その荒唐無稽で怪物的な悦楽の極限としての非=意味の絵画を論じようと思う。非=意味の絵画について、だ。意味を描くのでもない、何かを表現するのでもない、非=意味の絵画について、だ。
 では、非=意味とは、どのような状態なのか、どこにあるのか。非=意味それ自体は、戦略上のフィクションとして、仮りに想定された架空のモデルに過ぎない。すべての存在は、自明の理として意味してしまわざるを得ないし、誰も意味しない状態に至ることは不可能なのだ。だから、意味してしまうことでもなく、意味しないことではなく、非=意味という仮想的な夢想が必要とされるのである(意味でも無意味でもないものとして)。そういう架空の存在として、非=意味は、ある。
 意味の支配下にある現実にあって、非=意味を夢想すること。そうでなかったら、人は、ただの意味の奴隷だからだ。そうではないだろうか。単なる意味の奴隷から生まれ変わるためにこそ、非=意味を夢想すること。現実の束縛を対象化するためにこそ、非=意味があるはずである。意味の呪縛から非=意味へと向かうこと。それが不自由を自由と取り違えている我々にできる唯一の方法だろう。
 それは、自分の存在している都市や山奥から砂漠に向かうことという安易な手立てなどでは実現し得ない。ポストモダンの凡庸な比喩としてクリシェと化した砂漠、そこには砂漠という乾いた砂だけの荒れ地があるだけだろう。非=意味は砂漠などには存在していない。非=意味は、仮想的な夢想なので、どこにも存在していない。しかし、だからこそ、非=意味のひろがりへ、今すぐに旅立つこと。そこで何が待っているのかは不明だ。しかし、意味の奴隷として不自由を自由と取り違えて思考停止状態で存在するよりも、非=意味のひろがりへと向かい、未知の感覚を悦楽として享受すべきではないか。非=意味のひろがりを。
 今、必要なのは、非=意味の絵画であり写真である。
 しかし、なぜ、そのような非=意味の作品が必要なのかといえば、意味に濡れている存在のみがあふれかえる湿りきった世界、それが我々が生きている世界にほかならないからだ。今、求められるのは、この強大で絶対の意味の支配に異議を唱えることではなく、物語、表現、対象などによって意味化されていない何かを作り続け、発表を繰り返し、意味の支配を相対化しながら、無化してしまうことではないだろうか。なぜなら、意味の完全支配を転覆させることなどは不可能だろうし、人間そのものが意味的な存在・意味的な生物にほかならないからだ。
 非=意味の作品こそが、求められている。


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